「個人の感情に基づいた選択の結果が、社会的な罪に問われている」という勘違い

批判批判者の視点は、「個人の感情を優先して、たった1/2000の確率でしかない危険な方法を選択した特定個人を、ニセ科学批判者は非難し、罪を問うている」です。

1/2000の危険を回避するか、それとも覚悟するか。この選択の権利は、当事者である個人の意思が最優先される。この価値判断は個人の主観によってのみ決定される。内容を価値判断するのは個人の主観のみであり、他人が価値付けをすることはできない。
火山が噴火したとき、危険地域の住民にとって、生まれ育った土地を離れることは、耐え難い苦痛、である。しかしその苦痛は、他人には理解できない。
ビタミンK投与は、薬を非常に嫌う人にとっては、耐え難い苦痛、である。しかしその苦痛は、他人には理解できない。
他人には当人の苦痛を理解できないのだから、火山噴火だろうとビタミンKだろうと他人にとっては同じなのだ。全ての個人の主観や感情は、社会的に等しい価値を持つということ。どっちの価値が上なのか下なのかを比較できないのだから、全て同じと扱うしかない。


あのひとが選択肢と死亡の確率だけを問題しようとするのは、これが原因。内容を議論で客観的に検討することができないから、内容を無視した確率だけを問題にするしかなくなった。もし内容を検討すると、個人の自由意志での選択もできなくなるわけ。火山が噴火したときは全員が逃げないでとどまるべきだ、ビタミンKは誰一人にも投与してはならない、と主張したら、個人の自由意志での選択に干渉することになってしまうから。
もし、その選択肢が、100%に近い確率での死亡が明らかであれば、法的な規制も止むを得ないかもしれない。しかし1/2000の危険は世の中に多数ある。個人個人がそれぞれの望みのために、危険を覚悟して人生の選択をしている。これらの人々、全ての罪を問わないのならば、「1/2000の危険を選択した、1/2000の、たった一人でしかない、特定の助産師だけの罪を問うのはおかしい。罪を問うならば該当する人間全員に等しく問うはずであるから、ニセ科学批判者たちは論理的に間違っている」。