『水からの伝言』ブックマーク休止のお知らせと批判批判者のテンプレート

はてなブックマークで長いこと続けてきた『水伝ブックマーク』は休止します。再開の予定はありません。
[B! 水からの伝言] Narrのブックマーク

批判批判を理解しなければならなかったから水伝を参考にしていた

私は水伝ブックマークを、私個人が経験した批判批判を理解するための、参考資料として作っていました。この記事は、批判批判とは何なのか、私の理解を書いた、素人の独自研究です。自己採点では100点満点で25点をつけました。

人によっては気分を害する内容を書きます。読むなら承知の上で読んでください。勝手ながら、批判の多くは無視するつもりでいます。
また、私には信用がありません。私は批判批判者側からは「人間として程度が低いとしか言いようがない」と某漫画家や自称「他人の心が分かる作家」に評価されていますし、そうでない側からも「立派な結論を出してくれた論客にケチをつける勘違いトンデモである」と断定されています。

この記事の内容に賛同しないのは当然ですが(25点だと言っている)、私自身が気付いていない私の心の闇を指摘してあげようだとか、私を批判するついでに私の知人や書体業界まで侮辱する*1だとか、そういった批判はお断りします。

対象読者

他人に読ませるための記事ではありませんが、なんとなくの数字で示します。

知人が批判批判者で無視もできず困っているのなら、知人の言い分を理解する取っ掛かりにはなるかもしれません。問題解決はしませんが。

大きな流れ

  1. 批判批判とはどのようなものか
  2. 批判批判のパターンから『水からの伝言』を作る
  3. 批判批判の全体像

「批判批判」を仮定義

「批判」とは、物事を評価する行動です。たとえば通販ならば、商品のレビューで100点満点、も批判です。より狭い意味では、他人の仕事等に否定的な評価を論じて、改善や賠償を要求する行動を意味します。通販ならば、詐欺商品だぞ金返せ、など。
今ここで言う「批判批判」とは、誰かが批判に限らず発言をしている際に、その言動そのものを狭い意味での批判と見なして、止めさせようと干渉する行動や主張内容、とします。「批判する行為そのものを有害と見なし、批判を止めるように要求する」を略して批判批判です。

「批判」の題材は様々ですが、水伝やホメオパシーから、テレビアニメの感想まで含みます。最も軽い批判批判は以下のような例です。

  • 「水伝は科学ではないと批判するのなら、科学ではないものを科学者が批判するのはおかしい。傲慢である」
  • 「水伝を批判するのならば、水伝信者の心情を尊重しなければならない」

特徴は、この場合、水伝そのものを支持するわけではない点です。一貫して、批判者側の行動や人間性を問題にします。
「批判批判者」とは、批判批判をする人のうち、究極的には私個人が経験した、過剰で奇妙な発言をする人たちのことです。議題がホメオパシーなら場合によっては命にかかわるため必死になることも理解できますが、しょうもない話題でも理解不能な主張が強く行われます。

批判批判のキーポイント __ 主観事実の社会的等価値原則

批判批判者の言動の共通点を探して、「主観事実の社会的等価値原則」に収束させました。私が経験した範囲内ならば、批判批判者の突拍子もない主張も解読可能になります。ひとつのパターンに絞って説明します。*2
さらに重要なのは、こちらが批判批判者に語った言葉が彼らにどのように変質して届くのか、が分かることです。

仮説 __ 主観事実の社会的等価値原則

  • すべての事実は主観事実の一種である
    • 他人の主張する事実もまた、主観事実と見なす。
    • 科学的事実も主観事実の一種である。
  • 主観事実は個人に内包しており、個人の所有物である。他人からの干渉を拒否できる。
  • 社会において、すべての主観事実は等しい価値を持つ。立証責任は無い(否定できる他人は存在しない)。
  • 主観事実の社会的等価値原則は、既存の社会規範を内包した上位互換の概念である。


重要部分をかみ砕いて繰り返します。

主観事実の

自分の意見も他人の意見も、すべて主観事実と見なします。
他人が科学的根拠とともに科学的事実を提示していても、主観と見なします。科学的根拠は「この人は科学タイプだ」と見なす以上の意味を持ちません。

社会的等価値

すべての主観事実を、種類も規模も問わずに、社会のなかでは等しい価値を持つものと見なします。

社会的でないなら、主観が等価値になる場面はあります。たとえば友人同士で映画を見に行くとき、どの映画を見るか決める場面です。
友人同士では、映画批評は価値をもちません。構成員の好みが問題になりますし、一構成員の好みは優先されません。
社会的に等価値であるとは、構成員が増えて日本全国民になっても、映画でなく科学や医療であっても、相容れないそれぞれの主張、それぞれの主観事実は、社会の中で等しく存在を認められなければならない、という意味です。

原則

原則とする第一の意味は、いったん置きます。
第二に、「主観事実の社会的等価値」を基本法則と考えれば、批判批判者の言動をある程度は理解できる、という意味での「原則」です。しかし、原則から論理的にすべてを導き出すことはできません。さらに、批判批判者の教科書はありませんから、彼らの主張はバラつきます。
第三に、これは表向きの建前である、という意味での「原則」です。彼らは都合が悪いときは忘れます。

この点、頭が痛いところです。原則はこうだが該当しないものもある、なんてことを言い出したら、原則が完全に間違っていても言い訳ができてしまいます。私も分かってはいますが、「主観事実の社会的等価値」以上のものは見つけることができませんでした。

批判批判は情報の所有権を主張するもの

「すべての意見を主観事実と見なす」とは、言い換えると、「情報の所有権を設定する」ということです。権利ですからルールがあります。批判批判者の主張は、このルールに基づくものです。
ところがこの所有権は、日本語からは読み解けません。

情報の所有権とは

これからの解説が説明になっていますが、大雑把には物品の所有権に近いものです。コンピュータのファイルの所有権のイメージでも構いません。

  • 情報の内容を公開するか秘密にするか、決められるのは所有者のみ。
  • 情報の内容に変更を加えてよいのは、所有者のみ。
  • 情報の内容に変更要求をしてもよい他人を決めるのは、所有者のみ。
  • ある情報の所有権をもたない他人が、その情報内容に影響されることはない。
    • 科学的事実に所有権が設定された場合は、科学者が科学的事実を発見、公開しても、他人が賛同しなければならない義務は無い。

これらの特性に、情報の内容は関係がない、というのが重要です。

属性を勝手に変える色眼鏡

映画など、物語性を持つ創作物を評価するとき、整合性は重要な評価基準です。たとえば、西暦1900年が舞台の映画で上空にジェット旅客機が飛んでいたら、撮影ミスです。
誰もがミスだと決めつけてかかる事例なら、意見対立はありません。しかし人によって判定の優先順位が異なる場合もあります。「ジェット旅客機は邪魔だが、すごく遠いから目立たないだろう、俳優が会心の演技をしているのに使わないのは惜しい」という意見もあるかもしれません。

私の場合、議論の場で、このような整合性を保つべき事柄が軽視されていると主張するなら、「……、よって、違和感を感じた」と表現します。不整合が無視できないほど大きな問題になっている、よって改善すべきだ、という意味で使います。
重要なのは違和感ではなく、不整合です。反論は、不整合だとの判断が誤っている根拠の提示か、不整合を許すべき別の重要性の提示となります。

批判批判者は、私のこの発言をどのように理解するのか。
「違和感を感じた」とは個人の不快感の表現だ、とも解釈できます。不整合そのものは「違和感を感じる人もいれば感じない人もいるもの」であり、善悪だとは見なしません。批判批判者が注目するのは個人の不快感の訴えである、「違和感」です。

私は「違和感を感じる」と言っても、「私は違和感を感じて苦しんだ」とは言っていません。ましてや「私のために映画を改変しろ」ではありません。しかし批判批判者は、他人の発言に全て、自動的に「私は……と感じた」を付加します。

1.「この物語には『矛盾がある』、よって違和感を感じた」
2.「この物語には矛盾がある、私は『違和感を感じた』」

一見全く同じですが、大きく異なります。
(1.)は物語の矛盾から論理的に導き出した違和感であり、作品の完成度を評価しています。
しかし(2.)は、一個人の快感不快感の自己申告に過ぎません。どれだけ矛盾があろうとも、違和感を感じない人にとっては矛盾などどうでもいいのです。

このように、批判批判者は、批判批判者自身の発言についても、その場の他人の発言についても、常に自動的に「私は……と感じた」を付加して読むことしかできません。

すべての主観は一般社会でも等価値である

2.「この物語には矛盾がある、私は『違和感を感じた』」
3.「矛盾に興味はない。私は『違和感を感じていない』」

ふつう、主張には優劣があります。根拠のない主張より、根拠のある主張のほうが正しいとされます。
(2.)は根拠を述べる姿勢がありますが、(3.)には根拠がありません。しかし快感不快感の自己申告という視点では、どちらにも優劣がありません。
すべての主張は一個人の実感、感じ方の個体差であるならば、人それぞれの実感には優劣がつけられません。これらの主張は等しい価値を持つものと見なすしかありません。

これは少人数の集団にとどまらず、広く一般社会全体にまで通用する概念とされます。批判批判者は自分が主観をそのまま述べれば、他人と社会は認める必要があると考えますし、同様に他人の主観も認めなければならない、とします。

よって、批判批判者は、普通に議論をしている状況に遭遇すると、まるで主観で主観を否定する不毛なやり取りをしているようにしか理解できません
なぜなら、一個人の主観以上の正しい主観、というものを認めてしまうと、自分自身の主観事実を社会に認めてもらえなくなるからです。唯一の意見の主張手段が奪われてしまいます。

批判批判者は反省もする

2.「この物語には矛盾がある、私は『違和感を感じた』」

批判批判者は議論の場に遭遇したとき、不毛なやり取りだと見なします。無視しようともしますが、「ひとこと言ってやりたい」誘惑もあります。
不毛なやり取りのなかで、批判批判者自身の主張を否定するかのような主張を見かけると、議論に参加して論拠を潰そうとします。たとえば(2.)の論拠は前半の「矛盾がある」ですから、批判批判者は矛盾の指摘の穴を探すか、矛盾そのものの重要性を低く評価しようと論じます。
ところがこの行動は、批判批判者自身にとっても反省すべき行動です。なぜなら「この物語には矛盾がある」と思ったのは批判対象の主観だからです。また、この矛盾点を潰そうとする行動は、相手の大事な『違和感』を傷つける行為です。
批判批判者は議論そのものを否定しておきながら、自ら議論に参加しようとする自己矛盾を抱えています。このような行動は、周囲から「あんたは何をしたいの?」と呆れられる結果になります。

CP属性変換

以上のように、前半部分も後半部分もそれぞれ、批判批判者は息をするように誤読しています。この誤読を定型処理するために、属性をアルファベットで付記します。

1-1.「この物語には『矛盾がある』(C)。よって違和感を感じた(C)」
2-1.「この物語には『矛盾がある』(P)。よって違和感を感じた(P)」
2-2.「私はこの物語には『矛盾がある』と思った(P)、よって私は違和感を感じた(P)」

CとPは情報の内容ではなく、内容とは無関係な所有権属性を意味します。さらに、CがPに、PがCに入れ替わることを、CP属性変換と名付けます。ここが最も独自研究っぽいところです。一般的な信頼できる概念ではないことに注意してください。
Cは共有や公共のイメージからコモンのC。Pは個人的のイメージからプライベートのPです。アルファベットの選択を間違った気もしていますが……。

ふつう、個人所有情報か共有される情報かは、情報の内容と状況によって決まります。
共有の情報は、たとえば辞典です。辞典に掲載された日本国憲法に改変があれば、間違いを読者から指摘されますし、出版社は直すでしょう。
個人所有情報は、たとえば日記です。日記に「今日は火星に旅行に行った」と書いても文句は言われません。

CP属性変換の要点は、

  • 情報の内容によっては、情報が個人所有情報か、それとも共有される情報なのかの認識が、人によって食い違う場合がある。
  • 個人情報か共有情報かを、会話のなかで当事者は無意識に判定してしまう。

という点です。

批判批判されるこちらも誤読する

批判批判者は敵を攻撃するため、自ら議論に参加します。具体論を述べることもあります。法律だって使います。
普通の議論に批判批判者が出現したとき、批判批判者の言葉をこちら側も誤読します。

(甲.)「AはBである、と私は思います。(あなたの感じ方とは違う感じ方をする人もいることを知りなさい、事実を認めなさい)(P)」
→「AはBである、と私は思います(C)」
→「AはBである(C)」
(乙.)「いや、Bは違うんじゃありませんか?」

批判批判者は、議論をやめさせようとしているのに、逆に議論が活発になります。

(補足)個人性は誰でも持っている

科学者だって、好き嫌いやプライベートはありますが、今回は最も簡略な説明をしています。

CPとPPの組み合わせで何度も作ろうとしてましたが、諦めました。

立証責任と社会的な権利

社会はすべての主観事実を科学的事実と同じように認めなければならない

批判批判者の主観事実は、彼らにとって、経験した事実、体験した事実、感じた事実です。
批判批判者は議題に意見を持たない第三者を自称することもありますが、議題に関連した経験があれば、意見を持った当事者にもなります。
批判批判者は、まるで彼の主張が一般常識であるかのように語ります。彼の主張に同意しない人のことを、生まれつき理解できない無能であると断定します。
それは批判批判者にとっては自分を特別扱いしているのではなく、他人の経験的事実をも認めてあげているつもりだから、彼が経験した事実を認めてもらって当然だと主張しているに過ぎません。他人を見下すのは経験豊富を自負しているからです。

通常、世間に認められた事実、一般常識は、他人の不勉強を非難する強い力を持ちます。たとえば戦争や民族の歴史など、不用意な発言をしたならば、知らないでは済まされずに問題になります。事実というものは、事実を認めない人の態度を非難する力があることを、彼らは知っています。
批判批判者にとって、彼らが経験した事実は他人を非難する根拠になりえる一般常識と、同じものなのです。そして経験事実には、立証する責任も、説明する責任も、ありません。

立証責任は認めないが権利は得たい

「僕の主観には説明責任も立証責任もないが、事実である。事実であるから、否定する人は非難してかまわない。理解できないからって否定するな」などという態度は、他人にとってはたまったものではありません。
そこまで正しいというなら説明くらいしなさい、と親切な人なら忠告します。しかし批判批判者にとっては、説明という行動は目の前の現実そのもの、つまり、目の前の一個人に教えてあげる、という以上の意味を持ちません。

私個人の経験の例だと、多少極端な批判批判者の場合、私が映画批評の説明と立証の責任の話をしたのに、かわりに人間関係に置き換えて理解してしまう例がありました。
いきなり「それは愛なのだ」と言い出したときは、私は困惑しました。もちろん立証責任など完全無視です。
作品批評ですら単純な感情表現としか理解できない人にとっては、一個人の感情を他人に伝えて、他人にもまた同じ感情を持たせようとする行為、としか思えないようでした。

プライベートな情報とコミュニケーション

批判批判者に「感性」とよばれるものの諸特性を説明します。

感性の共有

(甲.)「AはBであり(P)、私は好きです(P)」
(乙.)「AはBであり(P)、私も好きです(P)」

「A」が映画の場合を考えます。
ある映画を楽しめる人もいれば、楽しめない人もいます。大きく分けて前半部分が事実認識、後半部分は価値評価です。
もし自己と同一の認識と評価を持った人物を発見したならば、このとき「自己と他者は感性を共有している」と判定します。これが「感性の共有」または「共感」です。

映画マニアの集まりみたいなものですが、決定的に異なるのは、「なぜAはBであるのか」「なぜBなら好きなのか」を説明しない、意見交換して間違いを正したりしない、という点です。好きと言ったら好きだし、嫌いと言ったら終わりです。

主観事実は他人と関わる接点がありません。もし自分と他人の主観事実どうしで接点を発見できれば、プライベートな部分で他人との接点が生まれます。この「感性の共有」を作ることが、良好な人間関係である、とされます。

価値観の相違の理解と承認

(甲.)「AはBであり(P)、私は好きです(P)」
(乙.)「AはBですが(P)、私は嫌いです(P)」
(丙.)「AはBではないが(P)、私は好きです(P)」

また、食い違いが起きることを「感性の相違」「価値観の相違」とよびます。「他人の価値観を理解する」とは、人物ごとに認識と価値評価の対応表を作成することです。
さらに、(甲)(乙)(丙)それぞれが、互いに事実認識と価値評価に関して互いに自己のそれと等しい価値に扱うことを、「価値観の承認」とよびます。正しいか間違っているかを問題にしてはなりません。

日常範囲の人間関係にはなりますが、特別な関係にはなりません。言い換えると、批判批判者は「常識的な対人関係」がこのようなものだと見なして、初対面の他人に対しても要求します。
この要求が受け入れられなかったとき、彼らが起こす行動の一つが批判批判です。

原因と結果であり、根拠と結論ではない

ふつうの主張には、根拠があります。根拠が否定されれば、結論が消えます。
しかしプライベートな感想を交換する場では、事情が異なります。

(甲.)「このホラー映画はリアリティが有って(P)、私は恐怖を感じて楽しんだ(P)」
(乙.)「このホラー映画はリアリティが有るが(P)、私は恐怖を感じられず楽しめなかった(P)」
(丙.)「このホラー映画はリアリティが無いが(P)、私は恐怖を感じて楽しんだ(P)」

もし映画を鑑賞した事実がなければ、恐怖を感じることもできません。事実認識は原因であり、価値評価は結果です。

(甲.)「このホラー映画はよくわからなかったが(P)、私は恐怖を感じて楽しんだ(P)」
(乙.)「このホラー映画はよくわからなかったが(P)、私は恐怖を感じられず楽しめなかった(P)」
(丙.)「このホラー映画はよくわからなかったが(P)、私は恐怖を感じて楽しんだ(P)」

映画館の観客は素人ですから、映画の技術はわかりません。粗筋すら忘れることもあります。しかし結果部分の価値評価は、実感として確かに存在します。原因部分の事実認識を明示しなくとも、感想は明示できます。つまり原因がはっきりしなくても、結果は確実な事実として存在できます。

疑似共有と合言葉

大雑把な事実認識や説明不足は、意見の不一致を隠して共感を作る一面があります。

(甲.)「このホラー映画はリアリティが有って(P)、私は恐怖を感じて楽しんだ(P)」
(丙.)「このホラー映画はリアリティが無いが(P)、私は恐怖を感じて楽しんだ(P)」

(甲.)「このホラー映画はよくわからなかったが(P)、私は恐怖を感じて楽しんだ(P)」
(丙.)「このホラー映画はよくわからなかったが(P)、私は恐怖を感じて楽しんだ(P)」

事実認識が異なっているのに、その説明を省略すると、まるで感性を共有しているように見えます。

(甲.)「このホラー映画は『X』があり、(P)、私は恐怖を感じて楽しんだ(P)」
(丙.)「このホラー映画は『X』があり、(P)、私は恐怖を感じて楽しんだ(P)」

さらに、『X』という未定義用語*3を追加します。用語は同じですが、定義がされないので、各個人の事実認識の不一致を隠すことができます。いわゆる合言葉です。

疑似的な事実認識の一致を作ると、まるで集団で事実確認をしたかのような状態になります。事実を根拠に他人を非難するには有用です。
このように、批判批判者は事実関係の認識のすり合わせを曖昧に済ませようとする傾向がある、ということが重要です。

好き嫌いの極端に浅い理解

以上の説明は、簡単にまとめると、物事を好き嫌いで評価する行為です。ここには、普通の好き嫌いと大きく異なる点があります。

  • 好き嫌いだけで全体像を捉える、極端な簡略化。
    • 個々人で感じ方が異なる現象を大原則にする。その内実が、小学校の国語での、誤答レベルでも関係ない。
  • 好き嫌いだけで物事を捉える行動を、子供じみた行動とは見なさない。大人どうしでもコミュニケーションの基盤にする。

水伝は、このようなコミュニケーションに科学が利用されている事例です。言い換えると、科学を見世物と見なし、好きか嫌いかで処理しています。

水伝解析の1つのパターン __ 水伝ブログによる友達作り

取っ掛かり

水伝実験は、一般人の日常生活に関わる実験でしょうか。それとも最先端の夢物語のような実験でしょうか。
また、水伝実験に節操がないのはなぜでしょうか。冷凍庫の霜で大騒ぎしたかと思えば、食パンにカビを生やします。なぜ関係が薄い事柄を持ち出すのか。関係の薄い事柄を繋ぎとめている軸は、いったい何なのか。
そもそも彼らは何をしたいのか

批判批判と水伝が構造的に似ている、と仮定すると、ある程度の説明ができます*4

水伝の目的は何か

水伝ブログの目的は、共感的な人間関係の構築です。
「コミュニケーション目的の場合、水伝はどのように利用されるのか」の視点で、これから考えてゆきます。

代表的な水伝は、

「水の結晶実験を行った。よって感謝の言葉は大事である」

と要約できます。前半は事実認識、後半が価値評価です。

このパターンでは水伝道徳授業までは説明しきれません*5が、基盤になるものだと私は考えています。

水伝実験の作り方

水伝実験は、後半の価値評価から作成します。価値評価が一致することが共感を生みますから、曖昧で、ありふれた道徳を持ち出すことで、意見一致をはかります。
「 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『よって感謝の言葉は大事である(P)』」

次に事実認識部分を作ります。実験内容は、たとえば測定器と称した箱に文字を書いた紙を入れると数字が表示される、だけでも構いません。いわゆる「波動測定器」です。
「『・・・・実験を行った(P)。・・・・・・・・・・・・・』『よって感謝の言葉は大事である(P)』」

以上で成立はしますが、これは水伝の一歩手前の状態です。
水伝ではさらに、事実認識に個人の主観による価値評価を組み込みます。価値評価なのでばらつきますが、そこは霜の写真を選んで、大筋で評価を調整します。
「『水の結晶実験を行った(P)。水の結晶は綺麗であった(P)』『よって感謝の言葉は大事である(P)』」

さらにわかりやすく加筆します。
「『私は水の結晶実験に興味を持った(P)。私は水の結晶を綺麗だと感じた(P)』『よって私は感謝の言葉を大事にしようと思った(P)』」

すべて属性はプライベートのPです。個別に補足します。

「水の結晶実験を行った(P)」
実験はプライベートではないように見えますが、この実験行為は通常科学から派生した別グループです。通常科学がこれを否定することは禁止です。
雪の結晶は不思議なものだと思い込んでいる人ならば、個人の想像に他人が文句をつけないものと考えます。*6

「水の結晶は綺麗であった(P)」
それぞれ個人に水の結晶の美醜を価値評価させます。各個人が自由に価値評価したつもりになっていることが必要です。価値評価を他人からの干渉で変更したわけではありませんから、押しつけがましさを感じることもありません。

「よって感謝の言葉は大事である(P)」
水伝ブログは、「感謝の言葉なんて言いたくないけど、科学の命令だから仕方なく口先だけ感謝しようと思っている」とは書きません。個人の感情表現であることが察せられます。

外から見た水伝は暴力的である

「『私は水の結晶実験に興味を持った(P)。私は水の結晶を綺麗だと感じた(P)』『よって私は感謝の言葉を大事にしようと思った(P)』」
「『水の結晶実験を行った(P)。水の結晶は綺麗であった(P)』『よって感謝の言葉は大事である(P)』」

彼らの主張をこちらも誤読します。すべての要素を共有属性(C)に変換して、

「『水の結晶実験を行った(C)。水の結晶は綺麗であった(C)』『よって感謝の言葉は大事である(C)』」
「『現代科学者たちが水の結晶実験を行った(C)。水の結晶は感謝の文字の意味に反応して綺麗な形状になることが確認された(C)』『よって誰もが感謝の言葉を使わなければならないことが証明された(C)』」

見慣れた水伝になりました。

根拠のある主張ではなく原因のある価値評価

プライベートなコミュニケーションにおいての価値評価は、原因となった事実認識がなくなっても価値評価だけで存在する、というものでした。水伝ブログも同様です。水伝実験の信頼性がなくても、「感謝の言葉を大事にしようと思った」という心情表現を否定してはなりません。

「『水の結晶実験は100%正しいかは分からない(C)。でも私は水の結晶を綺麗だと感じたことは事実だ(P)』『よって私は感謝の言葉を大事にしようと思った(P)』」

たとえば科学実験部分を科学者から批判され、いちおうは批判を受け入れたつもりになった、とします。しかし価値評価は実経験です。過去に感じた感情であることは否定したくはありません。そして水伝ブログを通じて共感を感じたことも事実であり、共感を得た友人を否定することもできません。

水伝ブログは友人作りを目的としています。水伝の価値評価は心情表現であり、自己紹介です。自己紹介に異論を差しはさむことは、コミュニケーションの場では意味がありません。

水伝のフレーバーと増殖

水伝の一歩手前の状態では、事実認識部分を波動測定器で実現しました。波動測定器は、入力に紐づいた出力が得られればよいわけです。
ところが、波動測定器には欠点があります。

  • 少々の技術が必要になる。
  • 技術者には他人を騙している自覚があり、水伝を肯定するコミュニティの内部では作れない。

水伝は、波動測定器の代わりに身近な自然現象を使うことによって、波動測定器の欠点を克服しています。

「『水の結晶実験を行った(P)。水の結晶は綺麗であった(P)』『よって感謝の言葉は大事である(P)』」
「『パンにカビを生やす実験を行った(P)。カビの色に良い影響があった(P)』『よって感謝の言葉は大事である(P)』」
「『生卵を腐らせる実験を行った(P)。卵の匂いに良い影響があった(P)』『よって感謝の言葉は大事である(P)』」

『よって感謝の言葉は大事である(P)』を軸にして自然現象を選択することで、技術力がなくとも、他人を騙す自覚がなくとも、波動測定器を作れます。
また、波動測定器を複数にすることで、どれか一つの波動測定器が期待通りに動作しなくとも、後半の価値評価は保持できます。この結果、共感的な人間関係の保持に役立ちます

水伝批判批判の一例を検討する

ともかく、「ありがとう」がよい言葉だと教えられるのだから、それでよいのでは?

「水からの伝言」を信じないでください

仮に、ある子供が「水からの伝言」を信じたために、「ばかやろう」を使うのをやめていたとしましょう。 「水からの伝言」は本当ではありませんから、いつの日か、その子供も、水が「ばかやろう」を見て汚くなったりしないことを知るでしょう。 そうなったとき、その子供にとって、「ばかやろう」と言ってはいけない理由は消えてしまうのです。 そんな「道徳」でいいのでしょうか?

この話が授業で使われたって、どういうこと?

水伝は、根拠と結論ではなく、原因と結果です。原因が消えても結果は残ります。
批判批判者は、水伝が生徒の心情に影響を与えるものと捉えます。原因が消えても結果の心情は残るものだと考えます。さらに、影響が生徒の心情のみに、都合よく限定されます。
批判批判者は、水伝を、まるで状況に応じて臨機応変に利用方法を変更することが可能な、道具のようなものと見なしています。道具ですから、悪い結果が出ても、道具の使い方の問題だと言い張ります。*7

もちろん科学的事実は、道具のように、臨機応変に目的に合わせて使うことはできません。人間に使うつもりがなくとも、自然界で常に動いているのが科学的事実です。
食パンに生えるカビに、包装に印刷された言葉の意味が影響するならば、食品衛生に激震が走ります。法律の改正も必要です。そして、世の中の人々はこう考えるでしょう。「だから感謝の心を大切にしよう」ではなく、「だから感謝の心を持たない奴は出ていけ」と。
食品工場では、「悪い波動を出す人間」は解雇されます。いわゆる前科者は、水道管に近づくことも許されなくなるでしょう。
もしこのような事態になっても、批判批判者は水伝を悪とは見なしません。水伝の使い方が悪い、と考えるからです。

似ているが違うタイプの批判批判ももちろんある

説明していない、似たタイプの批判批判をする人を、簡単に例示します。

たとえば、政治の議論に慣れている人の「一部」です。政治的議論といっても多彩ですから、あくまで一部です。

  • 水伝批判を、思想信条の異なる集団どうしの勢力争いである、と見なした場合。
  • 個人の発言の解釈問題である、と見なした場合。例えば、政治家が公開の場で人種差別的ともとれる発言をして議論になるような。

このあと図を提示しますが、だいたいのイメージは同じです。
この記事で例示した批判批判者と異なるのは、議論を積極的に行うことです。他人の発言を題材に色々と解釈して、悪意が有るか無いかなどを論点にします。
相手側の事実関係の主張を「国家の主張、派閥の主張、主観事実」と見なしがちですし、他人の内心を読み解こうとする姿勢も強くなります。

科学的事実を、社会で共有する事実とは認めません。では何が社会で共有される事実かというと、例えば裁判所で認定された事実です。
このタイプの人も、科学的事実は社会の一部の科学者集団の事実認識、と捉えます。科学的事実が発見されても、それがイコール、誰もが認めなければならない事実、ではないのです。科学者が勝手に決めたことに従う義務はありません。
なぜなら、科学以外にも伝統的な宗教もあり、世界中で存在を認められているからです。ちょっと科学っぽく見えるが科学ではない事実がひとつ増えたところで、世の中は誰も困りません。
水伝によって作られた世界観を持っているからといって罪を問うことはできないし、ましてや感謝の言葉を大事にしている人たちを非難する理由はありません。

他人との付き合い方、社会人の自負

水伝から離れて、批判批判一般の特徴や私個人の経験を書いて、終わりにします。

主観事実が客観事実より上位である根拠

主観事実の社会的等価値原則では、客観事実よりも主観事実のほうが優れているものとされます。この点の説明をかねて、ある程度の全体像を簡単に図にします。

┌────────人間社会(現実)──────────────┐
│                             │
│┌───────┐                    │
││科学者┌───┼─────────┐          │
││   │非科学│   非科学者1 │  無所属者    │
││   │批判 │         │          │
│└───┼───┘         │          │
│    └─────────────┘          │
│             ┌─────┐         │
│             │非科学者N│         │
│             └─────┘         │
└─────────────────────────────┘

全体の人間社会のなかに、科学者と非科学者のコミニュティが存在します。これらは、それぞれが閉じています。

科学と非科学を足し算したら全部になる気がしますが、そうではありません。大多数は無所属です。

この図は、消費者感覚、買い物感覚を想像すると分かりやすくなります。科学は大手企業。非科学は中小企業。無所属は消費者です。
「科学による非科学批判」とは、大手企業が中小企業に圧力をかける行動です。

無所属者が最も利益を得られる方針は何でしょうか。科学者も非科学者も、無所属者にとっては、商品を開発、製造、販売する商売をしています。科学だろうと非科学だろうと、商品の選択肢は多いほうが優位に決まっています。

主観事実が客観事実より優位である理由。そして科学が「科学のようで科学でないもの」を否定する行為が傲慢と見なされる原因は、

  • 科学も科学でないものも、同じ主観事実である。比較してはならない。よって社会のなかでは同じ価値を持つべきだ。(主観事実の社会的等価値原則)
  • 科学と非科学の両方を使えばいいのに、非科学を潰す必要性がわからない。(選択肢は少ないより多いほうがよい)

以上のような、誤った上位互換感覚です。
*8

人間は普段やっていることしかできない

説明の途中で、友人同士で映画を見に行く例を挙げました。先ほどは、買い物感覚だと述べました。
批判批判者の主張は、突拍子もないことが多くあります。大げさにも論じます。しかし彼らの主張の根幹は、非常に狭い範囲の日常経験である、と考えるのが、最も単純な仮説です。

  • 自然発生している。カルト宗教の教典のような、怪しい発生源はない。
    • 赤の他人どうしでも似通う。常識のように動作する。
  • 個人を平等に尊重するかのように見える。
    • 「多様性を尊重せよ」といったありふれた掛け声が、「すべての個人の感情に権利を認めろ」の意味で批判批判者に解釈され、彼らの自信を強めている。

科学は経験事実をもとに作られた?

インターネットのメールでの、私の体験談です。個人を特定可能な内容は含みません。極端な例に見えるかもしれませんが、ありふれてるほうだと思います。

昔、話し合いをするネットの場で、それなりの年齢で人生経験がある作家だ、と称する女性と知り合いました。先に例示した、映画批評の説明と立証の責任について、「それは愛だ」と言い切った女性です。
見出しのような発言もありましたが、書きすぎると面倒になるので大幅に端折ります。
私は彼女に、ある私と対立した批判批判者の主張について見解を尋ねました。彼女は、その批判批判者を強く支持しました。
彼女は私がどれだけ説明しても、「そんなことは知っている」という返答でした。創作の技術があれば分かるのだそうですが、私には彼女が何も理解できていないようにしか思えませんでした。
最終的に私は説教されました。会話のごく一部を再現します。彼女を「甲」とします。

(甲)あなたは私に期待通りに褒められないから不愉快になっているのだ。私は創作の技術で人間の心を理解することができる。
(Narr)褒められたいなんてことはありません。私に問題があるということなら、その理由を教えていただきたいと言っています。そういう決めつけは失礼です。
(甲)私は、あなたが期待通りに褒められないから不愉快になっていると感じたのです。
(Narr)それは、あなたの主観であって、客観的事実ではないですよね?
(甲)私がそのように感じたことは、客観的事実です。

私が最大限できる無難な解釈は、彼女は感情で他人を操作する手段しか選べなくなった人なのだろう、というものです。実際はもっと極端な気はしますが、それは控えるとしても。

この会話の後、彼女の言動に問題があって、私は彼女に謝罪をしましたが、私の本心ではありません。彼女自身が自分を大人だと自称していたから、頭が冷えれば無茶苦茶さを反省してくれるのではないか、と最後に期待したからです。その期待は完全に無駄でしたが。

私は、「主観事実の社会的等価値」を「あくまで原則である」と強調しました。その根本的な理由は、すべての人の主観事実を、等しく否定せずに認めることなど、現実にはできないからです。
誰でも他人の内心を想像することはあります。自分勝手な都合で他人の内心を捏造することもあります。普通はそこで、お互いの認識の間違いを正しながら、共通認識を作ることを試みます*9。しかし批判批判者のように、主観事実を無条件に他人に認めさせようとし続ければ、他人の内心すら「私がそう思ったから」などという無茶な根拠で決めつけるしかなくなります。
彼らのやり方は、面倒事を増やしているだけです。


ちなみに最初に書いた「漫画家」は別人です。先日、Androidの漫画アプリで名前を見かけました。

多少のこじらせはあっても凡人の範囲内

私は「水伝や批判批判は、公共意識の食い違いが起こしている」と表現したことがあります。
水伝批判の動機のひとつは、疑似科学に騙される人がいたら気の毒だ、という「公共の場でのふるまいのルールの意識」です。しかし「公共の場でのふるまいのルールの意識」を持ち合わせているのは、批判批判者側も同じです。

私がこの記事で書いた批判批判者のパターンには、他人と違う特殊な嗜好といった「普通ではない何か」はありません。
自然礼賛のような多少の偏りはありますが、これは彼らに特有のものではありません。
水伝で示したように、ありふれた嗜好だからこそ、詳しく説明をしないからこそ、彼らは仲間との共感を感じることができるのです。

彼らは特殊を自称することもありますが、平凡な人間です。私はこの点については、確信しています。

2023-06-27追記

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
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ライセンスを設定しておきます。この記事は気分次第で消すかもしれませんので。
申し訳ないですが、最初に書いたように、はてなブックマークも含めて見ないようしています。

*1:小学校の書写も忘れている人達が、「書体は画一的なものだ」とか寝言を言わないように。

*2:整理と説明が難しいので省きますが、批判批判者と似たタイプに思えるのに、「客観的事実」を持ち出して議論をする人もいます。

*3:水伝の場合は「水の結晶は美しくなった」の「美しい・綺麗」が該当します。

*4:検証はできていない。

*5:水伝道徳授業は、生徒を矯正することが目的です。価値評価する権利が子供にはありません。 それに対して水伝ブログでは、価値評価が一致しないことは想定されません。あらかじめ、閲覧者たちからの価値評価が一致するような題材を選ぶからです。

*6:私が暮らす地域だと、雪の結晶は玄関前にも膨大な量が積もります。条件次第で肉眼で普通に見えます。除雪しなければならないだけの邪魔物です。

*7:これと似ているのは「ことわざ・教訓話」です。「人という文字は人と人とが支えあっている様子から作られた。だから、君たちも支え合わなければならない」など。

*8:科学者を「西洋医学」、非科学者1を「ホメオパシー」にする例も分かりやすい。

*9:これを「話し合い」といいます。