個人の感情や自由意志による決断の権利を最優先にする

「1/2000の確率の死亡を安価に回避する方法がある。この状況で、死亡を回避する方法を実行すべきか、それとも実行しないべきか」と設問した。

情報の属性(Narr独自の手作りツールです)つけて、視点を二つに分けます。視点を広く全体を客観的に見るか、それとも個人の主観的視点で眺めるか。色で見分けてください。

客観的な数字の選択

  • 「2000人に1人の赤ちゃんが死亡する可能性がある。赤ちゃんを助けるべきだろうか、放置すべきだろうか。助けるならば、どのような方法で助けるべきだろうか。それが問題だ。」

「1/2000の確率で人が死ぬ」は、20000人に10人が死ぬかもしれないと同じ。この10人を助けることができるならば、死亡回避の方法をとるべきである、と普通は考えるわな。
「死亡回避の方法」を実行する責任は、全ての人に等しく義務付けられてる。実行したい人もいれば、したくない人もいるかもしれないが、彼ら個人個人の自由意志とは関係なく、彼らの行動は決定される。
客観的な根拠であるデータに基づいて、医療現場の人間の行動が決まる。

主観的な数字の選択

  • 「わたしの赤ちゃんが生まれた。ビタミンKという人工物を与えなかった場合、2000回に1回の確率でこの子は死んでしまうらしい。わたしは赤ちゃんの命のために人工物を与えるべきだろうか。それとも2000回に1回の危険を覚悟して与えないべきだろうか。それが問題だ。」

「1/2000の確率で人が死ぬ」は、「もし運が悪ければ、1/2000の確率で私は死ぬかもしれない」の意味になる。
ある人が、個人的な願望や心情を理由に、ある行動を選択しようとした。その選択肢は、「1/2000で死ぬかもしれない」選択肢であった。
「自分が1/2000で死亡する確率があるが、個人的な心情は満足する選択肢」をとるか。それとも、「死ぬ可能性は減るが、個人的な心情では非常に不満になる選択肢」をとるか。


判断材料である客観的なデータよりも、個人の自由意志による選択のほうが強い。(個人の自由意志が根拠より優先される。論理的な説得が不可能)