読んでていらいらしてしまって


本棚の整理諸々のために、目を通してたりとか。
2002年の本で古いこともあるだろうし、原発事故以前と今とでだいぶ変わったこともあろうけれども。なんかいろいろ、読んでて苛々してきていて。とはいえそんなに悪く言うものでもないのだけれども。

以下、書き散らかして気晴らし。




先日の、http://d.hatena.ne.jp/Narr/20170812←の本らしても、安斎せんせの本にしても。

  • 個人個人の主観事実と、
  • 科学があつかう客観事実との

兼ね合いって難しいよね、的な視点があるように見えた。いろんな人がそのあたりに着眼してるっつうことはあるんだと思う。
んだけども、菊池せんせの本を読んでるときよりも、安斎せんせの本のほうが、なんか読んでてイライラしてくるのだよ。なんとなくというか、「これじゃ駄目だろうな」としか思えないというか。
コラムとして「人生、四つの大事」が書かれてて、ブルーバックスで長々と書く内容じゃないからコラムなんだろうが。引用……しようとすると全転載になっちまうなこれ。箇条書きにしてある四つだけ引用してくると、

  • (1)自分なりの価値の発見
  • (2)主体的働きかけの姿勢
  • (3)科学的な世界観の習得
  • (4)自己の価値観の相対化

こういうのって評価が難しいというか、(あえて低い評価をするなら)安斎せんせの自己満足にしかなってないと思うんだよ。それこそ科学的に厳しく検証するもんでもないし、やっぱり本のまとめ的な文章なわけで。
そして、ね。こういう四つの主張というか、「わたしの人生観はこういうものなんだ」という自己アピールみたいなものは、水伝なりニセ科学批判批判なりでうんざりするやりとりをすると、頻出するもんだと思う。主に水伝を肯定的に受け取る人や、批判批判の立場から聞かされるものとして。
彼らにとっちゃ、ミカンを腐らせるのも「自分なりの価値の発見」であるんだろうし、それを「主体的働きかけ」をして社会や他人とつながろうとしてるんだろうし。科学的な世界観の習得、なんでしょうよ彼らにとっちゃ腐敗ミカンの実験ごっこも。霊みたいなデタラメに惑わされずに現実を見てるつもりなんだろうさね。
そして自己の価値観の相対化、なんてのは、彼らにしちゃ「科学信者に言われたくない」ってなるんじゃないすか。自分の価値観と他人の価値観が違うからって否定するな、なんて、私も何度聞かされてきたか。



水伝の騒動に巻き込まれないために「自分なりの価値の発見」は要らんわけですよ。強いて恰好つけて言えば、「常識と普通の人間関係があれば望ましい」くらいのはずで、「めんどくさい、興味ない」でもいいのだから。
安斎せんせのコラムに書いてあるような「心満たされた生き方」も必要ない。社会に働きかけ、なんてしても、他人にとっちゃ迷惑なだけだ。


人の生き方としては、幸せに生きるべきだ、というほうが一般論としては立派で正しいのかもしんないけれど。幸せかどうかなんてあんまり関係がないのが現実で、特に他人の幸せなんてどうでもいいはずで。
というか、本人が幸せになりたいのなら、本人にどうにかしてもらうしかないことのはずで。






私が十代の頃、通りすがりの宗教勧誘っぽい壮年の男性に勧誘されたことがあるんだが、その壮年男性は「病気が治った」とか、そんなのらしかった。私はそのとき、いろいろ思うところがあって、正面から言い負かしてしまったのだよ。歩道で30分も、連れの後輩を待たせてしまった上で。なにやってたんだか……議論としては私の言ってたことも穴だらけだっただろうしなぁ……。
ともかく、最後はその男性のほうが根を上げて、「納得できないなら立ち去ればいいんだよ」的なことを言って去っていった(普通、勧誘する側が言うことじゃないよな)。
その数日後、その男性か、仲間っぽい人に、他の知人が勧誘されたらしい。その知人の場合は「金をくれるんならやってやる」の一言で切り捨てたらしい。数秒。


「金をくれるんならやってやる」のほうが手っ取り早いだけじゃなくて、穏便でもあったのかなぁ、なんて今では思ってる。あの男性は論破されたくて勧誘してきたわけじゃなく、「人の話を素直に受け入れてくれそうな姿恰好をした若者を、仲間にしたい。受け入れてくれる人を増やしたい」だけだったんだろうから。

他人の話を聞く義務は誰にもないし、自分の間違った事実認識を改めねばならない決まりもない。
他人に「あなたの話を聞きたい」とお願いしていないのなら、他人の話を聞く必要はない。


どっちが悪かったかといったら、私のほうが悪かったんじゃないんだろうか。私はあの男性の仲間になることを望まれただけで、私の意見を求められたのではないから。
私という人間そのものは、あの男性にとっては何の価値もなかったわけだし。








客観的事実と主観的事実、科学は客観事実を問題にしていて〜、というのは間違っちゃいないが、問題はそこから先だろう。こっちは客観的事実について話してるつもりでも相手は主観事実とみなしてたりするとか。主観事実はすべて「価値観」なんてアホみたいな言葉で一緒くたにするもんでもないだろうとか。イライラしてるのはそこだけか所詮は。気晴らしだし別にいいかこれで。