書き散らかし

なんか書かんと、ここの使い方忘れる。つか、残るんかいな、はてなダイアリーのサービスは。移行せにゃならんのだろうかブログのほうに。

積んでた本の一部。今、本棚の整理目的で軽く目ぇ通していて、えーと、読んだら捨てますすんません。捨てるのは仕方ないがそれをわざわざ言うな、と。ごもっとも。

それぞれもう、出版されてから10年とか経ってるのかと……うん、菊池誠さんのは1992年っすな(そうだがそうじゃない)。
かもがわ出版の対談本のほうは読んだ、けれど。まぁ、もやもやしてるなぁと。何がしかの新事実確認したから主張したいのだ、なんてものをはじめから書く気はないみたいだし、必ずしも読者に賛同してもらいたいわけでもないんだろうかな。
それならそっちのほうがいいなぁ、とは思った。「世の中の風潮は〇〇で特徴は××といった異常行動であり、それが見られるあなたは異常者なのだ」よりは、はるかに。



コバエがうっとうしい。少しくらいなら大目に見るがモニターに入るなよコラ。パネルの隙間に潜り込んで死ぬなよ死んだら殺すぞ。



はてなブックマーク - 水からの伝言に関するNarrのブックマーク
水伝ブックマークは5500弱になっとります。やめようとも思うのだけど、終われないんだろうな、たぶん。

ここんところは比較的、重めの方向性のものが、割合として増えてるかなぁという気はしてる。重めっつうか、マイナー化。
教育や科学に口出しして表舞台に立とうとするものよりは、もっと個人的な利益を目的とした「健康になりたい」「美人になりたい」といったものが目に付く。それか、すごくオカルト臭いやつ。

増えた、というより、「ねぇねぇ知ってる?水の結晶ってね……」な、ライトなのが減って、かわりにオカルト臭いのが目立つようになってきた、かも。



↑の香山さんの黄色い本での……「現世利益・個人の幸福」っすか? それと似たようなもの、水伝だと教育関係の話は減ったにしても、美容についての「現世利益」は、けっこう見かける。
私は香山さんの話は、あんまり同意はできないというか、話を大げさにし過ぎじゃないのか、って気はするのだけれども。つか、文章は平易なはずなのに意味が分からんところ多数です私にゃ……。





「水伝ブログの人らも一般人、強いて言えば、なんにも考えてないだけ」、というのが私の今んところの認識で。個別の例外はたくさんあるにしても、大雑把に言えるとしたら、その程度しかないような気がしてる。

「きれいになりたい」という現世利益を求めて水伝を利用しようとしてる、というんも微妙で。「なんとなく耳当たりの良いネタを見かけたからブログで使って自己アピール」な側面もあるだろうし。現世利益というよりは、単純に「自分にとっての商品価値にしか興味がない」という側面が大きいんだと思ってる。



水伝が騒動や喧嘩になるときに見られることだと思うけれど、水伝を使おうとする人ってのは、商品としての水伝を道具として「使おうとしてる」。たとえば、生徒の暴言を黙らせたい。美人になって満足したい。健康になった気分になりたい。ブログで「いい話」を紹介して自己アピールしたい。等々。
彼らにとって、目的外のケースは想定する必要がない。水伝の主張がいかに非科学的・非道徳的かを説明しても通用せん理由の一つはこれで、「よい使い方の一例である水伝道徳授業」も、「水伝が道徳的によくない理由」も、それぞれ「使い方の一種」として等価に、かつ、バラバラに扱われてる。どっちか都合のよい片方だけを使うことができる。


このへんの態度って、意識してやってるというよりは、「慣れ」なんだろう、と私は思ってるので。お買い物に慣れすぎてる。
もしそうだとしたら、この点については、その人が生き物として異常とか病気とか、そこまで言うもんでもないと思う。間抜けだとは思うが。



あんまり「〜といった人が増えている」だとか、「〜は〇〇的な思考の例である」だとか、「風潮」とか、そういうのは無いとは思わないけれど、あんまりスケールがデカい仮説を考えすぎるのはよくないと思うんだよ。「ある」と思って見ると、あちこちに「ある」ように見えてくるもので。ないのに。

まぁ、家族がなに考えてるのかだって分からんからね。赤の他人がなに考えてるかだって分かるわけもないし。それは半ば冗談としても、せめてちょっと話を聞いた程度でどうこう、ってのは、やらんようにしたいので。分かった気分にならないように。