水伝のつくりと批判の難しさについて少し

http://d.hatena.ne.jp/Narr/20140523
↑のピラミッド形を使って、もう少し。

前掲図。ピラミッドの上に乗っかってるほど重要事項だけど、それらは下のものがないと成り立たないよ、という話。この図使って、水伝批判のややっこしさの一部を、少しだけ図示してみる試み気まぐれこんなことしてるヒマないんだけどイライラしてるから書いちゃえば終わるわけで云々。



水伝道徳授業ではピラミッドの頂点は必ずしも表面化してなくて、隠されてると見なす。先生の本音は「教室の荒れをなんとかしたい」とか「仕事てっとり早く済ませてぇ」とか色々ではあっても、表に出るのは耳あたりの良い「言葉遣いに気をつけましょうね」だけである。よって今回はピラミッドのてっぺんは見ないことにして……。


水伝道徳ではたとえば「リンゴを罵倒したらすごく腐った」といった「実験事実」のうえに、「言葉の大切さを学びましょう」という「道徳」を乗っけてる。ところがこれらは本来、完全に別物で、関係がない。


関係がないのに、授業でもし「実験事実」が否定されると「道徳」も成り立たなくなっちゃう。だから…


図が酷いのは芸のうちとして。やたらと「言葉の大事さを教えたかったんです!」と強調してみせたり、実験へのツッコミに対して誤魔化して見せたりして、なんとかかんとか体裁を保とうと頑張る。


ピラミッドを伸ばす。
もともと道徳授業では「道徳」の部分が成り立てば良いわけで、「科学実験」のことはあんまり気にしない。もっと言えば、授業に都合のよい結論が出せれば他はどうでもいい。しかし実際は、「科学実験」は授業の都合なんて無視して広がりを持ってしまう。


「科学実験」は、多種多様な結論を導き出す。数え切れないくらい、いろんな影響が出てくる。都合よく便利な結論だけ選ぶことができない。
「水伝批判」というものの一つがこれで、「もし水伝実験が正しいなら××というおかしな現象があるはずだよね」と水伝実験の奇妙さを指摘したり、する。






このへんからが厄介というか、ここまでは「まぁそういう整理の仕方もあるかもね」くらいには認めてくれる人でも、ここからはNarrの意見に賛成しなくなるところですけれどね。


水伝は本当に一つなのですかということなのですよ厄介な問題の一つが。
水伝実験って大抵、「思わせぶり」なわけですよ。はっきり言わない。「文字を水に見せた」のはずが、それを見て感動してる水伝好きなお姉ちゃんは、「きれいな言葉を使えば美人になれるの!」なんて言ってたりする。「ありがとう」「愛・感謝」が、おねーちゃんの頭の中に入った時点で「きれいな言葉」に脳内変換されちゃう。
そして、どういう脳内変換がなされたかは、他人からは見えない。分からない。確認のしようがない。水伝が好きな人たちどうしの間でさえ、おそらくは友達どうしでも相手の本音を理解してない。

見た目「水伝実験」は一つなように見えて、実際のところは個々人で脳内変換された「水伝のようなもの」が複数あって、それらは曖昧なままになってる。だから……


もし「水伝のようなものの一部」を潰せたとしても、隣の「水伝のようなもの」に乗り換えればいい。水伝の解釈は自由で、誰にも制限されない。だって教科書も試験も教師もないんだから。

常にこう、「泡のように」というか。その時々の気分と自分勝手に合わせて、解釈をいろいろと変えられる。本音は隠す。表に出すのは耳あたりのよい「道徳」の部分ばかり。肝心の「実験」も、ハッキリと決めないことによって解釈に幅を持たせて、批判を避ける。

水伝実験を否定しようにも、もとの実験が一つの形に定まってない。定まらないものは、まず潰せない。
「○○をすれば水伝批判は可能だろ」なんていうのは、水伝のめんどくささを何も知らんからそんなこと言えるんすよ。





そして、水伝は水伝だけでは終わらなくて、関連するめんどくさい問題が他にも……「ボクは水伝信者じゃないけど水伝批判者は傲慢だ!」な批判批判の問題も絡んでくるし、そこからさらに批判批判一般の問題にも繋がる。「批判批判的な社会常識とは何ぞや、それはどういう問題を起こしてて、今後どうなるのか、どう対応すべきか」にも繋がってる、はず。たぶん。
批判合戦して勝利宣言すれば終わりな議論ゲームじゃないんだから、現物と向き合って、何がしか改善の糸口を見つけないと意味ないわけで。議論してるつもりなのは水伝批判してる人のほうだけで、批判されてるほうは議論を望んでないし、議論しなきゃならない義務があるとも、他人の賛同が必要だとも思ってません。たぶん。




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*1:トゥギャッターまとめるのも、けっこう気疲れするんすよ。水伝批判という集団リンチの片棒かついでると思われるだろうなー、とかいうのはまぁしゃあないけれど、いったい何年前に検討した水伝批判なんだ、ってのを見るのもまた疲れるし。「いまどき水伝なんてまだやってるの?」も何を言ってるのかと思うし。私ゃ、「ちょっとブログを読むだけで巨大な問題の核心をズバッと突ける立派な論客さま」のために資料集めの単純労働をする作業員じゃないわけでね……。それは今はどうでもいいがめんどくさいな。疲れるしめんどくさいならやめりゃいいんだが。