水伝は強くて水伝批判は弱いの話

化粧ベニヤ用の釘を捨てるか捨てないかどーしようかな、と考えたり突っついたりしてたときに思いついたこと。いつも以上に思いつきだけど、割と分かりやすい気がする。
正しいとは思えんが、いつものように作ったら捨てる前提だから、まぁ。

お話し(主張)を三つの要素に分ける

(1)事実関係・科学的な情報

水伝なら水の結晶実験のこと。

(2)公的な道徳とか正義とか

水伝なら「感謝のことばは大切ですよね」的な部分。道徳授業で声を大きくして言ってるとこ。他人と共通認識を作ろうとしてる部分。

(3)個人的な利益・商品価値

感謝の言葉は大切ですよね、だからありがとうを言うと健康になれますよ、友達ができますよ、美人になれますよ、おっぱいが大きくなりますよ、とかとか。

三つの要素の優劣関係(強いか弱いかの強弱)

より魅力的な要素はどれか、より人をひきつけるのはどれかで順位をつけると、いちばん強いのは(3)商品価値。個人的に欲しいものがいちばん魅力的。次に強いのは(2)の道徳とか良識とか正義とか。(1)事実関係、がいちばん弱い。
水伝実験がいちばん弱い、というのは変に感じるかもしれないけれど、それはいったん置いといて。

三つの要素にあるもう一つの優劣関係(お話しの前提と結論)

水伝のお話しではまず(1)の水伝実験がありきで、(2)は(1)の上に乗っかってる。(3)は「だから何なのか」の部分で、だから水伝を受け入れると友達ができますよだとか、だから美人になれますよだとか。何がしかの商品価値を明示してる部分。これも(1)と(2)の上に乗ってる。建前上は個人的な利益だけを求めるわけにはいかんのだから、(3)は「道徳っぽい正しさ」がないと成立しない。

ふたつの強弱関係


まぁ汚い図。
商品価値がいちばん強いのだけれど、ピラミッドでは頂点にあるから、下が崩れると成立できない。さんざん言われてるように科学実験の部分が崩れると道徳部分が成立しないが、実はそれよりも「道徳部分が成立するからこそ、その上にある個人的な商品価値が得られる」というのが、今回のモデルでNarrが書きたいことのひとつ。道徳部分で終わってるわけじゃなくて、「だから○○が得られるんだ!」っつう商品価値の部分、はっきり言うと欲望がある。

水伝ブログは強い


商品価値の部分は何でもいい*1。何でもいいけど「だからあなたにこういう良いことがありますよ」っていう商品価値が明示されてることが大事。これがお話しとしての分かりやすさ、魅力になってる。

水伝批判は弱い(またはズルい)

単純に批判をしたら、前提の水伝実験の否定だけで終わっちゃう。終わっちゃうんだけれど、これだとピラミッドの中と上がない。ないから水伝批判のお話しには商品価値と魅力がない。「実験が間違ってるから、だから何? 間違ってるって話を信じて何の良いことがあるの?」みたいな。
この時点では、そもそも批判されてることを理解できない人もいるんじゃなかろうか。


「嘘つきはよくない」が加わると、「だから何?」という疑問はなくなって、主張らしくはなる。なるけれどこれにも商品価値はない。やっぱりただの「攻撃」にしかならん。


水伝ブログの主張を逆手にとって「だったら○○じゃないか?」とツッコミを入れてみる。図に疑問は残るけど。
「病気の人は感謝の気持ちが足りないんですね」と突っ込みを入れる行為は、正義とか道徳とかの問題を超えて、それより個人的な心の問題、人格評価の部分にまで入ろうとしてる、と見なされるんじゃないか。「あなたは病気の人間をバカにしてるんですね」というような。
土台部分の水伝実験を肯定することによって、水伝ブログの主張を捻じ曲げて個人攻撃*2する、解釈で遊ぶ。だからズルい。

土台部分は弱いということ(なぜ科学実験の体裁をとるのか、の理由のひとつ)


最初に戻って。ブログやら道徳授業やらで水伝を使うのは何故なのか、というと、水伝実験があるから、ではないわけです。面白い実験があったから紹介しよう、というものではない。商品価値の部分にそれぞれの思惑がある。生徒の態度が悪いのを改善したい、ブログで賛同を得て友達が欲しい、友達も欲しいけど美人にもなりたい、健康にもなりたい、世間より優れた自分でいたい、などなど。そういう商品価値が得られない水伝実験なんて、要らない。
商品価値を得られればよいのだから、水伝実験が必ずしも正しくなくてもいいはず。要するに「否定されなければいい」(ここ大事)。そして人から人へ伝わる伝染性、お話しの説得力があればなおよい。
科学の体裁は、このふたつの条件、「説得力」と「正誤を誤魔化す」のにちょうどいいんじゃないか。説得力は当然として、「科学的に云々」というと、あたかもそれが「まだ研究中ではっきりしないもの」であるとか、「将来どうなるのか分からないもの」であるとか、「人間の意見は絶対ではないのだから」みたいな捉え方をされることがある。リアルだけどリアルじゃない、みたいな。
正しいけれど間違っているかもしれない可能性を否定はしない、でも正しいと思うというような、はっきりしない態度でいること。水伝実験をどう見なそうと(写真を否定しないのなら)個人の勝手で、そこからどのように解釈を膨らませようと自由。誰にも文句は言われない。


こういう曖昧な土台に乗っかってるのが水伝で、その頂点には、なんのことはない凡人の欲望があるんじゃないか。

*1:何でもいいというか、自由意志での選択が可能と見なされてる、というのもある気がしてる。道具は使い方次第だ、みたいな。

*2:図のピラミッドの中段は公的な領域で、頂点は個人的な領域になってる。下の科学的な部分は普通、公的な部分だけど、水伝ブログにとっては個人的な部分扱いされてる。このへんは私が前々から変な図を書いたりしてる「赤と緑の私的領域と公的領域の切り替えモデル」なんだけど、思いつきのピラミッドに赤と緑を塗り始めるとゴチャゴチャになるんで、今回はやめといた。「商品価値」ってのは大抵プライベートなので、やっぱり公的・私的領域のモデルって必要だとは思うんだけど、どうにも。