水伝の使用目的の一つは友人作りにあるということ、のつづき

昨日のつづき。
こっから先は、100点満点で5点にも行ってない話。
文字化けしたらごめんなさい、です。画像にするとめんどいので。

水伝を改造してみる


水に「ありがとう」の文字を見せると結晶は綺麗になる。「ばかやろう」を見せると結晶は汚なくなる。
人間の体の70%は水です。
感謝の言葉は大切ですね!
↑昨日の例文。改造してみる。

水に「ありがとう」の文字を見せると結晶はになる。「ばかやろう」を見せると結晶はになる。
人間の体の70%は水です。
感謝の言葉は大切ですね!
「感謝の言葉は大切ですね!」と言われても、なにがなんだかサッパリだ。
一般に「綺麗」には好意的な意味合いがあって、「汚い」には嫌悪的な意味合いがある。この「綺麗」「汚い」を、価値の優劣をつけられない、価値等価なに入れ替えたから、こうなった。

必要なのは写真でも物理現象でもなく、価値評価の優劣判定

水伝道徳授業にせよ水伝ブログにせよ、言葉でそのまんま「綺麗になる・汚くなる」と言うだけでなく、写真を見せます。その写真を見てるのは誰かったら、道徳授業を受けてる生徒や、ブログの閲覧者です。閲覧者側が二枚の写真を観測した結果、写真の価値評価をして、明確な価値の優劣関係を認識するからこそ、水伝は成り立ってる。ではどっちが良いとか悪いとか差をつけられないので、水伝は壊れてしまった*1
昨日から使ってる水伝例文では写真を使ってません。文章だけ。ところが文章だけであっても、価値評価とほぼ同じ意味合いを含む「綺麗」「汚い」で書けば、水伝はだいたい成立してる。
水伝において「感謝の言葉は大切」の理解と、それによる仲間内での意見一致に必要なのは、結晶写真ではなく価値評価の優劣判定
価値評価の良し悪しさえあればいいから、水伝は氷の結晶写真だけでなく、ご飯の腐り方だったりしても構わない。

「綺麗」「汚い」と判定しているのは誰なのか

水伝において、価値の優劣判定、いったい誰がしてるのか。そもそも価値の優劣判定は一つしか無いのか???
水伝において、結晶写真の優劣判定をする権力者、という人はいないです。誰か偉い人が綺麗だと言ったから綺麗、という話ではない。水伝道徳授業でも、生徒に写真見せます。
結晶写真の美醜の判定者は個々の閲覧者であって、ここに客観的な評価は関係がない。言い換えると、たとえば「美術的にこの結晶写真は上手ですか? 下手ですか?」というような批評的な意味合いはない。
写真を批評するのなら、正しい評価は正しくて、間違った評価は間違ってるもんです。正しいと間違いの間に揺らぎはあっても、明らかな間違いは間違ってる。しかし、主観の評価には正しいも間違いもない。綺麗だと思ったら綺麗で、汚いと思ったら汚い、で確定する。

水伝と水伝批判・批判批判で起きている、ややこしいところは、水結晶写真の美醜の評価は、客観的評価で行うのか主観評価で行うのかの区別が曖昧で、常に混同されていること。


水伝を肯定する人々の集団のなかでは、結晶写真の美醜判定は、「統一された共通認識、まとめてひとつ」ではない。「この結晶はどのように解釈すべきであろうか?」なんて、議論して決めてるところなんて、無いんだし。
水伝での価値判定は、個人個人がバラバラに判定した価値判断の集合体なのだ。個人個人が価値評価して、詳しい中身は隠したまま、表面だけを見せ合ってる。
個別の価値判定は個人に閉じていて、他人と認識を共有してはいない。まるで結晶写真の評価が一致しているように見えても、実際はバラバラだ。

「感謝の言葉は大切ですね!」の共有は、プライベートな領域での価値判定を他者と擬似的に共有する行為につながってる

「感謝の言葉は大切である」の根拠になった、結晶写真の価値判定。この価値判定は、ひとりひとりの閲覧者の実感。主観による判定で、他人とは関係がないです。関係がないのだけれど、他人に理解してもらいたい、気が合う人と友人になりたいという欲求はあるんだろう。

もし、雪の結晶が綺麗だから、他人にもその美しさを伝えたいってんなら、冬場の北海道に住んで写真を撮って、「雪の結晶は綺麗ですよ〜」ってブログにアップすりゃいいです*2。んだけどそれでは、綺麗だと思ってもらえるのは雪の結晶であって、雪の結晶を綺麗だと思った自分自身、ではなかったりする。
共有したがってるのは「結晶の客観的な美しさ」ではなくて、結晶を美しいと判定した自分の価値判断基準のほう。
んだから、「雪の結晶は綺麗ですね」だけでは不十分。雪の結晶を綺麗だと思った、だから自分はどう思っているのか、自分はどういう人間なのか。そこを他人に認めてもらいたい、ということなんだと思う。
「水伝では科学的根拠よりも、結論部分の『感謝の言葉が大事』のほうが重要である」には、そういう意味がある。


えーと、わかりにくいか。水伝例文において、「感謝の言葉は大切ですね!」という一言の、本当の意味は……


水に「ありがとう」の文字を見せると結晶は綺麗になる。「ばかやろう」を見せると結晶は汚なくなる。
人間の体の70%は水です。
私は、「感謝の言葉は大切」だと思っている人間なんですよ。
という意味を、多量に含んでる、ということ。

水伝は二重(以上)の構造になってる

昨日は「水伝では、結論部分が重要で、根拠である科学実験はそれほど重要でない」というような話をしたし、そういう見方もできると思う。だけど「結晶写真の美しさ」が大きな意味を持ってることも、おそらく確か*3
昨日書いたのを一重目の構造だとしたら、その中にもう一重、別の構造が入ってる気がする。マトリョーシカみたいに。
マトリョーシカの中身、今日書いた、「個人の価値判定」はたぶん……単純に水と氷の科学実験の問題とは……あんまり関係ない気がする。
どっちかというと、創作分野の問題だと思う。ゲームとか小説とか映画とかの問題。
そっち分野においての、作品評価やその評価の共有方法、事実認識やコミュニケーション、社会のなかでの文化のあり方。そして、創作分野で起きてる批判批判が、水伝を解くにも必要なのではないか、むしろニセ科学問題は批判批判の問題の枝葉の一つじゃないのか、と私は思ってる。私は。



前々から何度か言ってるけど、Narrはただの素人ゲーマーだ。私にとって優先すべき課題は、ゲームの批判批判の問題。水伝批判が第一目標、じゃない。
「科学とは関係がない、たかがテレビゲームファンのケンカの話なら、そんな問題には興味もないし、わたしが取り組むほどの価値もない」というなら……えっと、ここまで長い話にお付き合いいただいてありがとうございました、さようなら。



web拍手 by FC2説明

*1:「水にロックを聞かせたら結晶が壊れた」は、これと同類の問題が起きてるんだろう。

*2:どうせ写真なんて撮ってられるのは最初だけで、そのうち雪なんて除雪するだけのゴミとしか思えなくなるのは間違いないが。

*3:水伝は水の結晶でなくても成立するから、水の結晶に限定せず、ご飯とか桃とかでも理解する必要があるので。