水伝の使用目的の一つは友人作りにあるということ

もうだいぶ長いこと、いつか書こう書こうと下書きしたりしてるんだけど、そのたびに煮詰まりすぎて結局書けない、な話のなかから。
推敲控えめでバーッと、一部分だけ書いてみる。

結論部分を優先した発言

水伝ブログで頻発するパターンはこんなの。


水に「ありがとう」の文字を見せると結晶は綺麗になる。「ばかやろう」を見せると結晶は汚なくなる。
人間の体の70%は水です。
感謝の言葉は大切ですね!

んでは、この水伝ブログ主が、ブログ読者に期待する反応は、以下の二つのパターンのうち、どっちか。

  1. そうですね! 感謝の言葉は大切ですね!
  2. そうなんですか! 水は言葉に影響されるんですか! すごい発見ですね!

パターン(1.)は人間関係に注目している。パターン(2.)は物理現象というか科学的事実というかの問題に注目してる。
もちろんブログ主は、読者にパターン(1.)の反応を求めてる。


まず、この水伝ブログの文章を分けて考えてみると、です。


(a.)水に「ありがとう」の文字を見せると結晶は綺麗になる。「ばかやろう」を見せると結晶は汚なくなる。
(b.)人間の体の70%は水です。

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(c.)感謝の言葉は大切ですね!

a,b,cの三つに分けて、さらにa,bとcで分けることができる。

(1.)は水伝エントリの「感謝の言葉が大事」に注目してる。a,bよりもcを重視してる、とみることもできる。
逆に(2.)は、cを無視してa,bだけに注目してる。

水伝ブログを書くひとは、根拠となる科学関係の部分よりも、結論部分を重視してる。そして閲覧者が結論部分に賛同してくれることを期待してる


前半a,bよりも後半cのほうを重要視しているのは、水伝道徳授業も同じ、になっとる。また、「道徳の授業であって理科の授業でないのだから、細かい文句を言うな」なタイプの批判批判にも通じるところがある。

結論部分に賛同を得て、根拠部分で関係を強固にして、友人関係をつくる


(a.)水に「ありがとう」の文字を見せると結晶は綺麗になる。「ばかやろう」を見せると結晶は汚なくなる。
(b.)人間の体の70%は水です。

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(c.)感謝の言葉は大切ですね!

水伝エントリの内容を文字どおりに読み取ると、a,bがあるからcが成り立つ。根拠があるから結論が成り立つんだから。根拠と結論のどっちが大事かっつうたら、根拠はとっても大事。根拠が無いことには困る。ところが水伝ブログのひとと閲覧者との間で本当に重要なのは、根拠であるa,bよりも結論であるcです。
でもって、cが正しいこと自体は、a,bの根拠とは無関係に、予め決まってる。ブログ主はブログ主個人が勝手に一人で結論を出してる。同様に、閲覧者は閲覧者で勝手に結論を出してる。つまり、ブログ主と閲覧者は、見た目の結論としては「感謝の言葉は大切だ」という点では意見一致しているが、「なぜ感謝の言葉は大切なのか」という本当の中身については、何ひとつ語っていない。だから、本当に意見が同じなのかどうかすらわからないということ*1


水伝ブログのひとと、水伝ブログに「いいね!」する閲覧者のひととは、結論部分で見た目の意見一致を作る。その見た目の意見一致が本心からの意見一致であるかのように勘違いさせる役割を、a,bの根拠は果たしてる。「科学的事実だから、(あなたと私の意見が同じになる根拠は)あなたも私も同じだものね〜」くらいに。
んだから、a,bの根拠に客観性は必要ないのだ。a,bに賛同しない人が世間にたくさんいても、どうでもいい。その場の友人関係を維持し、強固にするために根拠があるのだから、水伝ブログのひとと閲覧者だけがa,bをユルく肯定してれば、それでいい。

コミュニケーションより科学的事実を優先する人に邪魔されると困る、っつうお話

水伝や水伝を利用しようとする人が「事実」や「科学的実験」というのを自称しようとするのは、思惑として彼らのまぁ…実体験というか偏見があるんだと思う。「科学的事実ならば他人が疑いもなく受け入れてくれるだろう」ともくろんでるんじゃないだろか。彼らは批判を求めてるわけじゃないのだ。批判してほしくないし、でも、他人に非常識な水伝実験を受け入れてもらいたいから、科学を装う*2
ところが現実は逆で、「科学的実験」という話なら、他人は遠慮なくツッコミ入れます。水伝道徳授業でだって、教師が何をやりたいのかは察しても、それでも野暮をする。だって「事実」だの「科学的実験」だのと言ってるんだから。
他人に疑われることなく賛同してもらいたいから科学的事実を自称したのに、それがかえって批判を招く結果になってる、ということ。これが水伝と水伝批判が衝突する原因のひとつ。


批判者側は、根拠であるa,bを問題にする。それは水伝ブログのひとにとって、どういう結果を招くのか。せっかく水伝を使って気が合う友達と繋がれたのに、友達と共有している根拠部分を丸ごと否定されて、ユルく水伝を肯定することすらできなくなったら、さっきの「友達が増えて嬉しいな」の喜びはなんだったんだどうしてくれんだコラ、ということになっちゃう。

なぜ批判が通じないのか

なぜなら批判相手は集団だからである、というお話。
水伝使ってユルくでもベトベトにでもくっつこうとしてる人らにとっちゃ、彼らなりに必要というか、必死なんだろうさね。水伝否定を否定しないと、自分を認めてくれる友人とか社会だとかも失ってしまうんじゃないか、というような。
誰だって、他人に自分を認めてもらいたいもんだと思う。自分の内面にある、他人に認めてもらいたい思いなり、他人に認められて当然だと自負してる思いなりがある。自分を認めてもらいたいし、自分を認めてくれる人は、認めてあげたい。
水伝批判批判が罵倒芸になりがちなのは、「わたしたちはおとなとして立派なことをやってるんだ」を丸ごとツブされた、みたいなのもあるから、じゃないのか。


今回私が言いたいんは、水伝批判される側の人々も普通の人間で、そして、ひとりじゃないってことなのだ。
「そんなの分かってるわ」って言われるかもしんないが、基本仕様とかいいつつも、結局はひとりの人間の非常識な異常性に着目して、異常性で説明しようとするんじゃなくてですね。普通の凡人なら誰でも持ち合わせる普通の感情、が問題の核心にある、ということ。そこには、普通の人がひとりの大人として社会のなかで生きていくために、普通の人なら誰でも求めたがるものがあるんじゃないだろうか、ということ。


分量的に、このくらいにしといたほうがいいか。批判批判者がなぜ具体論を言わないのか〜の話を書こうとしてたんだけど、それはまた今度。
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つづき。自己採点5点だけど、それでも構わないって人だけ。

*1:本心を具体的に言葉にする必要がないから、他人に話したくないことは話さなくてもいいし、他人に傷つけられることもない。そうやって自分を守ることもできたりする。お互いの意見をはっきりさせずに曖昧なままにしておけば、意見が違ってても、表面化しないから、ケンカにもならない。

*2:装うってだけなら、べつに科学じゃなくてもいいはずでしょ。仏教やイスラムを装ってもいいはず。じゃあなんでわざわざ科学を選ぶんですか、ということ。彼らにとって経験的に科学はどんなもの? 自分で作るもの、じゃないし、批判するものでもない。「批判せずに受け入れることを社会から要求されている、それが科学」、なんじゃなかろか。