創作分野の批判批判にみられる、主観事実の社会的等価値原則

ゲーム批判批判の一例

私が、ニセ科学批判批判に関心を示してる理由のひとつ、について。


大雑把でなく書こうとしたら新書本一冊になっちゃった、の下書きで使っていた、過去に私が怒られた、ゲーム批判批判の例を、一部だけ引用してみます。
2006年のを今さら……とは何度も思ったけれど、私に説教してきた人は「誰もが守るべき常識」を語ってるつもりのはずなので、私が気を遣って名前を伏せるのもおかしいと思う。「常識」で他人を説教したんだから個人的な話じゃないはずで、恥ずかしいことはないだろ。そのまんま引用させてもらいます。

"431","あくまでも創作世界のことについては","2006年6月25日 17時17分","みけ(一スマブラファン)"

では、仮にみけと名乗らせていただきます。

>まず違和感ありき。理屈は自己分析の結果、説明の方法。

理屈の面で違和感を覚えたということに変わりはありませんね?

こと創作物の世界について、物理法則やその実現可能性で測ろうとするのも感性、いや価値観(後述の『感性』と混同するので『価値観』と呼ばせてもらいます)のひとつに過ぎないのではないでしょうか。感性に訴えることの危険性は十分にわかっているつもりです。しかし、理屈を通して語ることだけが必ず正しいのでしょうか。また、「自分の当たり前は他人の当たり前じゃない」とわかっておられるなら、それ以上何を議論する必要があるでしょうか。理屈を大事にする価値観の人間と、感性を大事にする価値観の人間が、それぞれの意見を述べたところで、「あなたの言っていることの意味はわかるが、納得がいかない」で終わってしまうでしょう。また、それでいいのだとも思います。テレビ番組で、ひとつのテーマについて異なる価値観の者同士が集まって討論するというものを見かけますが、多様な価値観があることを知る、というところまでは大いに結構です。ただ、そこで相手を何とか納得させようとしたり、「異論を唱え」たりすることは不毛な価値観の押し付けでしかありません。自分と違う価値観があると認めるだけではいけないのでしょうか。もちろんどちらかが人道的、法的に悪であったりする場合は別ですが、今は創作世界についての話なのでこれはあまり関係ないでしょう。

そういうわけで、Narrさんの投稿を読んでいると、どうにかして自分の考え方を納得してもらおうとしているような印象を受けるので、それはちょっと違うだろうという思いで投稿させていただいたのですが、思えば私の文章もそういう節があるなということで反省しています。

先にも書きましたが、言いたいことは、「言ってる意味はわかるが自分の価値観にそぐわないので納得できない」ということなのです。Narrさんからしてみれば私の言い分もそう思えるのではないでしょうか。私の文章は稚拙だし、感情面を推しだして書いてあるので、もしかしたら意味すら伝わっていないのかもしれませんが…

はっきり言ってしまえば、今この掲示板で語られていることは、客観的な結論付けをしたり、相手の考え方の問題点を追求したりすることに意味のあるテーマではない気がするのですが。



"440","これで最後にします","2006年6月27日 23時32分","みけ(一スマブラファン)"

ですからこの投稿に返信いただかなくても、読まなくても、削除していただいても構いません。卑怯だと思われるでしょうが、これ以上身のある話が出来るとは思えませんので。

>キャラクターをユーザに断り無く使った

これはちょっとおかしいですね。キャラクターはユーザーの所有物ではありません。各キャラクター権利関係者の了承は得ているのですから、このゲームが販売されることに何の問題もありません。

たしかにファンがいてこその作品であり、販売されたゲームの内容にファンが付いてこなければ問題です。しかし現状スマブラは相当数売れています。

違和感を持つななどとは言っていません。スマブラを批判するのも全く自由です。ただ、自分が許せないからといって作品の存在そのものの是非を問うのはいかがなものでしょうか。オリジナルとスマブラが衝突している、と感じるかどうかも個人次第です。

(続く)

"441","続き","2006年6月27日 23時32分","みけ(一スマブラファン)"

どうしても嫌で、開発者に送った意見も検討・採用されない。であれば、そういう意見があるにも関わらず、大した問題ではないと判断したか、あるいは商業を優先して、このゲームを販売させるに至った制作者、著作権者、販売者、そして少なくとも本作品におけるキャラクターや彼らの世界を見限るほかないのではないですか。キャラクターは違う、というのは通用しないでしょう。このゲームはかなり一次著作に近い。キャラクターや世界を作った当事者たちがこのゲームの存在を認めているんですから。

なかには自分のキャラクターが他作品のキャラクターとごちゃ混ぜにされるのは嫌だと思った人もいるかもしれません。それでも商業的、立場的な妥協から協力したのかもしれません。それが間違っていて、正させたいというのなら、驕りが過ぎると思います。

何にしろゲームは発売されました。一次創作者たちがそれを許しました。そしてNarrさんが納得できるキャラクターや世界ではなくなってしまった。ユーザーがこれを許す許さないは自由です。

ただ、あなたに許されるゲームでなければならない理由はどこにもありません。あなたは自分が被害者であるとか攻撃されているとか、挙句の果てに「『なぜスマブラが許されるのか』を、スマブラ開発者とスマブラファンが説明しなきゃならないんですよ」などと訳のわからない乱暴な発言で、見る者を(私だけかもしれませんが)著しく不快にさせていることにお気づきでしょうか。

以前からこちらのウェブサイトを見て感じていたことですが、何かの批判をする前に、その辟易するような攻撃的な物言いを改めて頂きたいと思うのですが…

http://www.h7.dion.ne.jp/cgi-bin/ezboard/beta-rev/1/

全文引用や詳細解説は省略。

ひとりじゃない

私が創作分野で批判批判をされたことは、これ一度じゃないです。「議論講座」をしている人の場でだったり、友人だと思っていた人から強い抗議(というか講義と説教)をされたこともある。他には、「あなたは私の心を壊そうとしている」なんて言われたりもした。
どれも、相手は子供じゃないのだ。ネットに限定していうと*1創作のプロ、もしくはプロを本気で目指してる大人たちから批判批判をされたことが、少なくとも3回以上。私はただのゲーム好きな素人だから、立場がすごく弱かったですよ。
Narrは作品を理解する能力がなく、(趣味・仕事問わずに)ものづくりをする人の気持ちも全くわかってない、らしい。議論する能力もなくて、勉強も足りないそうだ。
私だって、傷つける覚悟があって強い言葉を使うことはあっても、そのつもりが無かったから、困惑した。「あなたは何も分かっていないのですね」と何度言われたか。分からないのはそりゃ、確かに分からないんだけどさ……。

主観事実の等価値原則の幻想、があるはず

Narrが、これら創作分野の批判批判者の人らの主張から読み取った、共通の傾向だけ挙げます。

  • 作品評価は「感性・価値観」である。
  • 「感性・価値観」は個人個人で異なる。また「価値観が異なること」は、変えられない事実である。
  • 互いに矛盾する感想どうし、他者の感想を否定しようとする行為はルール違反。
  • 公的な場での文化作品の評価(感想)が、その評価をする根拠よりも強い。


以上のような特徴や、また、実際の創作批判批判者の態度や発言内容を理解するために、おとといの赤緑の図で表現した、「情報の共有・占有」が必要になった。

公的な場で共有されている(公共の場に発表された著作物すべて)Cという作品がある。ふたつの異なる作品評価、C1とC2がある。
このとき通常の作品評価では、C1とC2の評価のうち、より妥当な評価はどちらなのか、根拠を挙げて検討する。しかし批判批判者の基本主張では、C1とC2に優劣をつけない。C1,C2は個人的な感想と同じ性質を保持したまま、公共の場で強い存在感を持って扱われる。
また通常は、C1もC2も、その作品評価の根拠が否定されれば、結論であるC1,C2は成立しない。しかし批判批判者の主張の場合、根拠が存在していなくとも、C1,C2は成立する。
単なる感想として成立しているのではなく、公共の場で正しい作品評価を問題として会話がなされているときや、著作権法が問題になる話題のときでさえ、無根拠の作品評価が否定されず、また、手厚く優遇される

情報の属性を(一時的にでも)検討する必要

Narrはゲームソフトの作品評価をより妥当な作品評価、共有の事実認識と見なし、また、新規の主張に立証責任を求めてた。科学の方法と近いものがあった。
批判批判の彼は、そこから私と違いがあった。作品評価を個人個人の主観事実、感想(価値観)と見なして、立証責任を認めていない。彼は感想の多数決で、社会正義を判定する基準を決定していた*2。数で決まるということは?……個別の感想どうしの優劣を決める基準が無い、つまり主観事実が社会のなかで等しい価値を持って扱われている、ということ。
Narrが管理していた公開のネット掲示板で、赤の他人どうしが作品評価を話し合うときに、主観情報と客観情報が区別せずに混在してる。Narrは共有する前提で情報処理をおこない、他方は個人所有の情報処理をしている。主観事実と客観事実が混在したまま会話が行われていた
同一の文字情報(掲示板のカキコミ)を、意識しないままに読み替えて会話が行われてる。ここには情報の扱い方の規則性がふたつ同時に存在していて、そして、それらの間には変換法則があるはず
変換法則が分かれば、Narrが自分で発言した日本語が、批判批判者の彼に、どのような意味で理解されたのか、なぜ彼が怒ったのか、彼はどのような常識感覚で語っていたのか。これらがトレースできるようになるはず。


普通の科学と、科学を主観扱いする人たちとの情報処理とが混ぜこぜになって混乱しまくってる事項は?……それは「ニセ科学批判批判」だ、ということ。
トレースできるようになってようやく、出発点に立てるってもんだと思う。

その批判は「公共の場での情報処理感覚の違い」が意識されていますか

ニセ科学批判のひとたちからしてみれば、ニセ科学に魅力を感じたり擁護したりする人たちのことを、「個人性が絶対化している」「知識がない」「自然主義手作り主義」だと批判するのも、立派な批判なのかもしれんですが*3
もしニセ科学側の人々に「あなたは個人性が絶対化しているのだ」「あなたは自然主義なのだ」と批判することが妥当ならば、私が創作分野の批判批判者に繰り返し言われてきた「Narrは傲慢で自分勝手、大人になりきれていない子供である」「Narrは、創作の道具のひとつに過ぎない論理性ばかり気にして創作の深遠を分かっていない、教条主義者である」も、認めなきゃならないかもしれない。ニセ科学批判の人たちにとっては、私がそう評価されるのが妥当なのかもしれないけれど。
でもそれでは、相手側が何を言ってるか、理解する前に批判をしている、ということになるんだと思う。それがいいか悪いかは、分からないけれど。

「情報処理感覚の違い」を無視したまま専門家を信用できますか

確かに私は、一方的に他人を説教できる立場じゃないです。自信満々の他人に「大学で映画を勉強した」だとか、「作家の著作を根拠にしている」だとか言われれば、信用してしまいそうになる。
「素人はたとえインターネットであっても、専門家の言うことを感謝して聞け」、というなら。それなら私は、雑誌にマンガ描いてる漫画家に「人間として程度が低いとしか言いようがない」とネットで評価されたこともあったけれど*4
それでも「専門家が無料で教えてくれるのだから、感謝すべきだ」といえますか。
私は「専門家」である批判批判者の教えに従って、作品批評をする人たちを罵倒すべきですか。

実用主義

私が欲しいのは、事実の理解と、使える道具。そして、文化がまともな文化として認められるために必要な、人間としてまともな態度とは何なのか、が知りたい。
私はネットで楽しくゲームサイトやって、フォント作りして。そして、筋を通してモノづくりする人の応援をしたいのだ。ゲームやそれにともなうモノづくりが、「感性」「価値観」などといった理屈がまかり通ることで、相互理解の拒否や人間関係の断絶を正当化するなんて許せない*5批判批判者が私と同じように「相互理解や人間関係を大事にしろ」と主張してるのは、今の私なら分かる気がするけれど、それでも。
批判批判者だからって切り捨てたくはないし、他人を切り捨てているかのような態度をとれるほど偉いつもりもない。そんな姥捨て山みたいなものがあるのならば、真っ先に私が切り捨てられている。
できることなら、批判批判してる人の思いも穏便に解決できたらいいなと思うし、お互いに過ちがあるなら改善できればとも思ってる。


赤と緑の図にしても、作りたくて作ってるのではないです。必要だからできただけ。
自己採点30点も、問題の巨大さを考えれば、ずいぶん甘すぎる点数だと思ってる*6

web拍手 by FC2説明

*1:リアルでは創作分野の批判批判をされたことはないので。でも創作分野以外のことで似たような経験は何度もしてる。

*2:「価値観の多数決」に害を与える行動をとったNarrを非難し、それを正当な態度であると主張したから

*3:そういった批判をまた、別分野に転用することも「有意義な議論」なのかもしれないけれど。

*4:誰のことを評価してるかなんて知らないまま、事実関係を知ろうともしないまま、気楽に楽しそうに語らっていた。苦笑いするしかなかった。

*5:アニメキャラ一人への評価が食い違うだけで、人間関係すべてを完全に断絶すべきだ、なんておかしな常識を他人に押し付ける人がわらわらいるなんて、おかしすぎるだろ。文化が人間の相互不理解の証拠になるなんて認められない。

*6:議論なら持論に自信があって当たり前、という人は「30点なら出すな、自信があるものだけ主張しろ」と思うのかもしれない。けれど私は、批判批判の問題にまじめに取り組んで、合格点を出せる人が存在するとは思えない。他人が賛同してくれるのを期待できるほど自信があるなら、それは仲間内でしか議論をしていないか、何も分かってないか、どちらかだと思う。