駄文2
最近、道でたまに同じ男子高校生とすれ違うんだが、この子はいつもスマートフォンを持って、喋りっぱなしで歩いてる。
通話機能で友人と駄弁るのが習慣らしいが、声がでかい。住宅街の駅前で数秒間すれ違うだけだけど、会話が少し聞こえてくる。
この前は「他人なんてどうでもいいじゃん」と言ってた。このときは通りすがりの女性もちらっと見てた。
どうでもいいと思われてるのは今のような発言をする君のほうなんじゃないのか、という気がした。
別の日には、友人の交際関係の噂話をしてるようで、「あいつは〇〇のこと引きずってるらしい」などと言ってる。名前を言われても通りすがりの私には全くわからないのは確かだけれども、聞かされて気分が良いものでもなかった。
高校生くらいだと、これから先どうとでも成長する、わけでもなく、あんまり変わらないといえば変わらない。この頃に身に着けている物事の捉え方なり、人付き合いの方法なりで、今後も生きてくんだと思う。できることはできるが、できないことはできない。30歳になっても、60歳になっても。
批判批判と『水からの伝言』のタグで書いてるけど
何を言いたいのかというと、ひとりの人間が使える思考パターンというか、社会の捉え方だとかは、非常に限られているんじゃないか、ということ。ひとつしか使えないというか、ひとつ身に着けたら、どんな事柄にもその方法でしかアプローチできない。
先の男子高校生がそうだとは言わないけれど、けっこういるわけです、とにかく直接に関係する人間関係のことばかり考える人というのは。
人間関係のことばっかり気にして青年時代を過ごして、そのまま大人になる。大人になったからといって、科学的な思考方法が自動的に身に着くわけではないし、社会人としての科学知識との接し方を知ってるわけでもない。
義務教育で科学の情報には接したから、科学を「まわりの普通の人たちと同じように知っているつもり」にはなっているけれど、情報処理のパターンは、できるようにしかできない。科学の話題でも、いつものように、人間関係のアプローチでしか捉えられない。
2年前の記事で書いた批判批判者の女性なんかは、人間関係のぐちゃぐちゃしたやりとりばかり経験して、それしか関心を持ってこれなかったんだろう、と私は思ってる。
ご本人は「自分には特殊な感じ方があるから」「他人と自分は違うから」と言っていたけれど、感性の問題じゃなかったです、少なくとも私と接したときの彼女の問題は。主観を根拠に客観的な証明そのものを拒否しながら、他人を貶めて、反省と謝罪を要求してくる態度が問題だということを、本人がわかってなかった。「自分の体験事実を他人が全肯定することが大前提」という態度から、一歩も成長できていなかった。
人間、大人になるだけで、社会人にはなれない。本人は大人になったつもり、子供の頃の過ちから成長したつもりになっていても、実際には子供の頃の誤った態度のまま、拡大再生産をしていく。
人間関係の感情のやりとりというのは、私も苦手というか嫌いなので偉そうにどうこうは言えないけれど、ひとつ言えるのは「正しい人どうしなら合意できるわけではないし、幸せになれるわけでもない」ということでしょう。
言い換えれば、馬鹿と屑だから相性が良くて幸せになれるんです。馬鹿だから子供を作ってはいけないということはないし、屑だから幸せになってはいけないということもない。
正しいかどうかの問題ではないのだ、といえば、まぁそうでしょうね。